長い前置きだが、大したハナシではない。とある町のコーヒー屋さんにて。顔見知りになっていたおばさんに、私が初めて入った近隣の美容室について話した時のこと。
その美容室の感想などをつらつらとしゃべり、「とても統一されたコンセプトでお店が統一されていたのだが、ただ一点、お店には全く相応しくないように思える雑誌(女性誌のたぐい)が置いてあった。あれはお店の美的なコンセプトとの整合性はあるのだろうか」というようなことを、確か言ったはず。
この発話に対する、そのおばさんの合の手。「私は、いつもそんな雑誌は目障りなので、目に入らないところへ退けてもらう。そうしてもらったら。」私はここで、言葉を失ってしまった。
一瞬言葉を失った理由は次のようなものだ。
- 私は雑誌の存在がお店のコンセプトに合わないと思うと言った。
- 雑誌の存在が私が嫌かどうかは言っていない。
- 私の振舞いに関するアドバイスを求めていない。
私の発言から導けることはこの三つ。無論、それに対して、私の意図をこえて何かを発言することは可能であるし、その発言は私の想像の範囲を超えてなされることも、私は許容する。それが対話というものだ。
しかしながら、発言の意味を拡大したり、ずらしたり、曲解したり、ようするに無理解や思い込みからのリアクションは、私に論理的な齟齬を惹起こす。そのおばさんの「思い込み」は、
- 私がその雑誌があるのを嫌だと思っている。
- 嫌なものへの対処の仕方を知らないのか。
と、まるで客観性を担保しないことであった。つまり、私の発言が、私にも、客観的な文脈にも属するのではなく、おばさん自身の勝手な思い込みにのみ属し、私の発言から演繹できる事実を全く考慮せず、自分自身の思い込みのみで、このおばさんは対応している。ということを理解するのに2秒くらいかかり、その間、失語した、というハナシ。
こんなことは世の中に溢れている、ありふれた話しではあるのだろう、という気はするが、私は、自分の人生にこのような人たちを近づけたくはないのです、可能な限り。でも、それは無理か?
小川西町での出来事。

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