と諺でも言うが、無知ゆえの無垢さというものが確かにある。ただし、それは謂わば赤子の純粋さのようなもので、無知ゆえの残酷さと表裏一体の関係なのだ。たまたま正義を為すのと、それが正しいと結論してそう為すのとでは、現象として同じであっても、その意味は違ってくるように思える。
道徳的価値として同じであっても、前者は、端的に言って馬鹿(しかしながら、日本で「良い人」というような場合はこのような馬鹿を指すことが多い)である。後者は、何が正義かという問いを問うているという点で、倫理的だ。彼(彼女)がよい人間かどうかは分からないが、後者の場合、「よい」ということを少なくとも意識している。つまり、アホではない。それどころか、知性の存在、知的な働きのあるのが確かめられる。これは、議論の可能性があるということ、孔子(論語)やイエス(聖書)のように、ある行為なり思考が媒介的で流通されうる、ということだ。自己完結せず他者に対して開かれた人間。
そういうわけで、私は倫理的な人間を好む。
ただし、村落や会社のような閉じた共同体を前提にすれば、後者の方が「閉じている」ように見えるだろう。彼(彼女)は、ただ暗黙のコードには従わず、普遍的であらんとしているだけなのだ。
このことを理解できない者を、侮蔑的なニュアンスをこめて田舎者という。

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