2008年9月20日土曜日

心理ドラマ

ある事件なり何なりに対する心の動きの過程を追ったドラマにはいつも退屈してしまう。

世界の不思議さを人の心理に還元して理解しようとすることは、とどのつまり、主観主義を極端にするようなもので、一種の観念論だ。一方、客観主義というものも、それが十九世紀的な科学観(現象学以前)に過ぎないのであれば、こちらものまた観念論にすぎない。同じコードを共有するもの同士の約束事の確認。

芸術、そのなかでもとりわけ音楽は、そこに科学を内包しかつ超越するものだ、とはある芸術家の言であるが、音楽を単純に聴覚の快楽としか考えてない人や科学に対してあまりにもナイーブな考えを持つ人には、それは分かりづらい定義であろう。

音楽は聴覚の快楽「でも」あり、科学的な音響成分の構造的な配置やその再現「でも」あり、さらに時間や記憶のなかでは、メタ・ドラマ「でも」ある。これまでに想像もしなかった新たな響きの体験「でも」あり、忘れていた感覚の再現「でも」ある。ある統合された現象のうちのいずれかではなく、その全てであるのが、本質的に芸術なのだ。

このうち、時間軸にそった心理的なドラマの部分を強調したものは、今日ではアル意味で分かり易い部分を強調することでもある。「だって、こんなことがあったのだから、怒ったっていいでしょ?」というような日常性に依拠した文脈の構築が容易なのだ。この容易さは危険で、ある感情をピアノで表現しました、というような安易な素人っぽい作品を産み出す作曲家などは、音楽の芸術性よりも、音楽の日常性により多く(無意識的であっても)依拠しているということになる。

このことは、換言すれば、そのような作家はアホですね、ということだ。何故なら、心理ドラマを中心的なマテリアルとして扱うために、私たちは既に近代心理学を持っており、そこで明らかにされているように、私たちの日常的な気分や感情も、それが構造として(全てではないにしろ)扱うことができる、ということ抜きに、感情なり何なりと音楽なら音と直結していると能天気に信じているからだ。逆に、私たちの感情や気分が脳内物質の代謝にすぎない、という人も、また、同じ過ちに躓いている馬鹿だということも言える。というのも、脳内での化学物質の代謝が我々の気分を支配するが、その代謝自体は社会的である、ということを考慮していないからだ。

つまり、ある芸術作品がよい、というとき、私たちはその大衆性にも、また、作品自体の高度な構造にも依拠できないのだ。主観主義も客観主義もとれない。どこにも依拠出来ない場所で私たちはその作品の価値・好悪の判断をせねばならぬのだ。作品と対峙するのは、それを製作するのと同様に、非常に倫理的な営みなのである。

ひるがえって、大衆主義=安直な心理ドラマとは、この倫理性を私たちから奪うものにほかならない。この意味で、私は私たちに非倫理的たることを強いるものを嫌う。

・・・というようなことを、ある映画を観ていて考えていた。退屈な映画であった。

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